べき論は正しくてもしんどい
私が出会ってきた人の中には「〜すべき」とか「〜であるべき」という考えが強い方がいらっしゃいました。それらの人に共通していたのは、本人が強いストレスを感じしんどくなっていることでした。
今回はそんな「べき論」の人について書いていこうと思います。
Contents
べき論の中身は悪くないし間違っていないことが多い
「べき論」が強い人(この記事では、「べき論者」と呼ぶことにします。)が持っている「〜すべき」「〜であるべき」という考えの中身自体は悪くなく、間違っていないことが多いです。
私が出会ってきた人の多くが、「法律は守るべき」とか「人間は皆、周りの人のことを考えて行動すべき」など、真っ当な内容を言っていることが多いです。
このように「〜すべき」「〜であるべき」と考える内容自体は問題ないのに苦しむので、「自分は間違っていないのにどうしてしんどい思いをするのだとべき論者は余計にストレスを感じてしまいます。
べき論者には抜けているものがある
そんな一見正論を言っている「べき論者」ですが、なぜ社会ではストレスを感じるのでしょうか?その原因は至ってシンプルだと私は思っています。それは致命的な考えの抜けがあることです。
ズバリ言いますと「自分の「〜すべき」「〜であるべき」を他人に押し付けるべきでない」というべき論」が抜けているのです。
べき論者の「〜すべき」「〜であるべき」は正論であり、素晴らしいものです。そのため、べき論者は自分の考えが正しく、その考えにみんなが同意すべきだと考えてしまいます。そして、わかっているはずの「自分の「〜すべき」「〜であるべき」を他人に押し付けるべきでない。他人の意見や考えも尊重すべき」というべき論が抜けてしまいます。
その結果、自分が正しいと思っていることが、その通りにならず、ストレスになってしまいます。
なぜなら現実は、他人を変えることは非常に難しいことで、自分の行動だけで変えることが出来ないものだからです。変えようとする対象自体の意思決定や行動も必要になってきます。
このように他人の行動を変えることは自分の思い通りにいかない可能性が高く困難なことです。
この理屈を理解できていないからべき論者はストレスを溜めてしまうのです。
べき論者はどうすれば良いのか?
では、べき論者はどうすれば良いのでしょうか?色々な方法があると思います。
その1:ストレスコーピングの確立と強化
一つ目の方法がストレスコーピングの確立と強化です。この方法のメリットは考え方を変える必要はないということです。
しかしこの方法は、他人と揉めるしストレスも溜まるでしょう。
自分の「〜すべき」「〜であるべき」を曲げずに他人に押し付けるからです。
しかし、その溜まったストレスを上手に発散できるならこれもありです。
自分の考え方を曲げずにストレスも発散できるのを目指す人はこのストレスコーピング確立と強化を徹底して極めるというのが1番妥当な方法ではないでしょうか。
ただ個人的には、このスタンスはおすすめはしませんが…
その2:新たな「べき論」を加える
「自分の「〜すべき」「〜であるべき」を他人に押し付けるべきでない。他人の意見や考えも尊重すべき」というべき論を自分に加える方法です。
この結果、起きるのは自分の中のべき論との葛藤です。
例えを出しますと、電車で大声で話している人がいるとします。あるべき論者は「電車では静かにすべきだ」というべき論を持っています。それに「自分の「〜すべき」「〜であるべき」を他人に押し付けるべきでない。他人の意見や考えも尊重すべき」を加えます。
そうすると、どうなるでしょうか?
「相手は静かにすべきだが、その価値観を相手に押し付けるべきではないので、押し付けることはできない」という葛藤です。ここでストレスを感じると思います。そうなればあと一歩です。
この次の段階は「では自分はどうするのか?」です。自分がべき論を曲げるのか?それとも、べき論を守るのか?で答えは変わってきます。
べき論を曲げるのであれば、「自分が作ったのに、自分も守れない「べき論」を他人に押し付けているただの自己中心的な思考である」ということになります。
べき論を曲げないのであれば、自分が葛藤からくるストレスを避ける方法や考え方を模索していく必要が出てきます。例えば、先述した例だと、「本当は相手が静かにすべきだが、他人に押し付けるべきではないから、自分が別の車両に移動しよう」とかです。
基本的にこの葛藤はストレスなので、ストレスを避けるためには何かしら自分が行動することになると思います。
その3:ベター論者を目指す
ベター論者を目指すというものです。ここでいうベター論者とは「『〜の方が良いよね』と考える人」だと定義します。
「〜すべきである」「〜であるべき」から「〜したほうが良い」「〜であった方が良い」という考えにすることです。
1:やり方ですが、自分の「〜すべきである」「〜であるべき」を書き出しましょう。そうして自分がどんなことに対し 「〜すべきである」「〜であるべき」と考えているかを理解しましょう。
2:理解しても、生活していれば自然と「〜すべきである」「〜であるべき」であると考えてしまいます。そうした時に「〜した方が良いけどこの人はそれができないんだ。その人の生き方だし、自分が決められないから仕方がない」と考えるようにしましょう。これを繰り返していき、「〜すべきである」「〜であるべき」という考えを少しずつ「〜の方が良い」というように考えるようにしましょう。
3:2に関連する方法ですが、「〜すべきである」「〜であるべき」という言葉を使わないようにするのもおすすめです。とりあえず、「〜すべきである」「〜であるべき」というフレーズを「〜の方が良い」に言い換えておきましょう。思っていなくても行動を変えるだけでも効果があります。それが癖になると思考にも変化が現れます。
べき論は理想でしかない
覚えておいていただきたいのは、「〜すべきである」「〜であるべき」という考えは理想の世界でしか実現しないということです。
例えば、「みんな平等であるべきだとか、「人に誠実に接するべき」と考えても世界は不平等で、不誠実な人もいて、不誠実な方が得をすることだってあります。
理想を追い求めるのは個人の自由です。しかし、それを他人に押し付けると、他人も、自分も苦しくなってしまうのです。
べき論者の人、その人自身も他人のべき論を押しつけられると苦しくなると思います。
「〜すべきである」「〜であるべき」と思う考えの内容自体は正しいかもしれませんが、それはあくまでも理想であることを自覚し、「現実的にどうして行くのが自分が生きやすいのか?」を考えていくことが大切なのではないでしょうか。
自分の生きやすい生き方を
個人的には「べき論者であること」をオススメはしません。しかし、それもまた一つの思想であり生き方なので否定はしません。
まずはこの記事を読んで「自分はべき論者のまま生きるか?それともベター論者で生きるのか?」を考えていただければと思っています。
この記事が少しでも誰かの役に立てば幸いです。